明治時代から戦前、学校や会社の漕艇部(端艇部・ボート部)の艇庫や合宿所は向島にありました。向島は大学ボート部のメッカと言われていました。エリートのスポーツです。
明治20年、東京帝国大学の艇庫が向島に作られたことから始まりました(墨田区誌56号2021年4月号)。
しかし、すでに昭和5年には、最初の早慶レガッタが尾久で開かれています。
昭和 13 年以前から、交通の不便などから艇庫が向島から尾久橋から小台橋の(下流に向かって)右岸に移動してきました(古城庸夫氏論文図3)。
(都電小台)停留場付近を流れる荒川(現・隅田川)には、ボート競技のレースコースがあり、オリンピック代表決定戦など大きな大会も開かれていました。
すでに、明治末期から昭和初期にかけて、川沿いにはさまざまな大学や企業の艇庫が並んでいて、競技用ボートを作るデルタ造船所などもありました(都営交通都電さくらたび https://toden-sakuratabi.jp/)
ほとんど知られていないことですが、現在の堀船4丁目(当時の王子区堀船町2丁目)にも高校、大学、社会人のチームの艇庫や合宿所がありました。
デルタ造船など造船会社が荒川区尾久側にあったことからか、漕艇のメッカ・中心地域は「尾久地域」と呼ばれてきました。つまり「向島」から「(堀船4丁目を含む)尾久地域」そして現在は「戸田」に各ボート部の艇庫と合宿所は移動しました。
今後は、私たち堀船の住人だけでも東京の漕艇競技のメッカは「向島→堀船・尾久→戸田」に移動してきたと言いたいと思います。
現在の北区堀船4丁目には、日本郵船、学習院大、拓殖大学、日本大学など、隣接する荒川区尾久町には日本医大(母校です)、一高、文理大などの艇庫があったことがわかりました。
しかし、戦後直ぐに向島に戻るなど紆余曲折がありました。敗戦による水質の改善でしょう。しかし、向島堤防のかさ上げと水質の悪化により昭和28年1954年ごろから、たくさんの艇庫が「堀船・尾久」に移動したようです。
早大理工学部漕艇部では「昭和 28 年に尾久に 艇庫・合宿所建設を決定し、昭和 30 年 11 月に開所しています。尾久の水質 が極度に悪化し、また航行する船舶が急 増したのは僅か 3,4 年後です」(柳内龍二氏早大理工学部漕艇部OB会碧水会40号)」水質の悪化を予想できなかったようです。
荒川区立尾久八幡中学校は「昭和38年(1963年)、旧制第一高等学校端艇部(ボート部)の艇庫跡に開校しました」(八幡中学HP令和5年4月11日アクセス)。
北区堀船4丁目(旧堀船2丁目)の延命寺住職、島村智教師にお聞きました(令和6年7月)。延命寺様と墨田川の間には、日本大学の艇庫・合宿所があったとのことです。しかし、記憶にある範囲では、すでに使われていなかったそうです。
昭和39年1964年に三菱重工ボート部でオールを握ったことのある堀船在住の星野良子氏に聞きました。「会社から田端駅でおりてバスで小台橋まできて、上流か下流にあった艇庫兼合宿所で練習をした」そうです。「キリンビールの裏が上流の回転点で下流に漕いだ」そうです。
私が見て記憶にあるのは、船方神社裏にボートが底を上にして野ざらしでおいてあり、すでに、ほとんど使用されていなかったことと、梶原の渡しの手前あたりでボートがUターンしていたことです。
前記の星野良子氏によると、近くにはハンバーグ屋さんや食堂があり、ボート選手や若者でにぎわっていたそうです。
昭和39年1964年東京オリンピックの頃は、すでに川の汚染はとてもひどいものでした。その後のひどい水質汚染、護岸工事や船舶数の増加で戸田漕艇場に完全に移動したとのことでした。
戸田漕艇場は昭和15年1940年の東京オリンピック(中止)のためにすでに完成していました。昭和39年1964年の東京オリンピックのために追加工事が行われました。
現在の堀船と尾久の隅田川は、かなり清潔となっています。戸田漕艇場と変わらないと思います。しかし、数メートルの護岸があります。
この漕艇場に関する記事は、福性寺の専属カメラマン(高校生)からサジェスチョンをもらいました。
1.一橋大学体育会ボート部四神会100周年記念誌端艇部歴史史料https://www.hubc.jp/OBroom/hyaku/rekitei.html
2.古城庸夫(江戸川大学経営社会学科スポーツビジネス研究所准教授スポーツ近代史、コーチ学)2010 年11 月26 日受付.ボート競技が行った遠漕についての研究.情報と社会情報と社会 (21), 43-52, 2001-03-11(江戸川大学)
この記事は「堀船郷土史第3版」に掲載を予定。