前回の記事に引き続き門前の石仏様などについて書きます。
延命地蔵尊と左六阿弥陀一番道地蔵尊の左に、施主名の書かれた水鉢と花立て(一つの石)があります(写真)。以下が書き込まれています。
世話人 川島久吉 水野□次郎 松木源吉 中川トヨ 東洋紡績有志一同 大正八年□□ (1919年)
奉納から100年後では、石の風化により、お名前を読むことができない字ができています。
勤務先の工場の近くのお地蔵様に、寄付をする方がいたんですね!お地蔵様が、あんまりボロボロで貧しく同情して奉納したのでしょうか?「東洋紡績有志一同」様がそろって新調した「水鉢花立て」の前で、お参りをしたのでしょうか。
東洋紡績は以前のキリンビール、現在のプリントメディア(読売新聞など)の敷地にありました。明治41年(1908年)に下野紡績の工場として始まり、昭和16年(1941年)までありました。それ以降(昭和17年1月以降)は、東京第一陸軍造兵廠に工場敷地を貸与し、戦後払い下げになりました(堀船郷土史平成増補版、平成28年発行)。
ところで、福性寺には、東洋紡績の社員であった2軒のお檀家がおいでです。驚きませんか?いずれも篤信のお檀家です。世代を経たあとも、お互いのお家のご先祖様が東洋紡績の社員であったことをご存知です。東洋紡績の全国の支社をお回りになったお檀家のご子孫は、私と、海外を含めた参拝旅行に出かけています。そのおり、東洋紡績の社員であったお父様のお話をして下さいました。私の父ととても昵懇のお父様でした。いずれも、福性寺にとって大切で有難いお檀家です。
ある時、こちらのお父様が消化器の悪性腫瘍になり禁食でお過ごしとのことで、ご家族から相談を受けました。「お父さんは食いしん坊で、食事ができないので、とてもかわいそうです」とお聞きしました。お肉が好きでした。物を食べると出血すること、進行癌であることと、ご高齢であることのために手術をしてもらえないとのことでした。しかし、私の身近な病院で、口から食べることができるようにすることを目的として、手術をしてもらいました。治癒を目指すことだけが医療ではありません(5月25日記事)。
また、この病院は患者の老化の程度を年齢(カレンダーエイジ)ではなくて、実際のお身体の状態で判断しています。単に、実年齢だけで手術の適応(医療の中の正当性)がないなどとは言わないです。とても誠実な病院です。
数年して、再発することなく癌以外の病気で亡くなりました。お嬢様からは、美味しものを何度もたくさん食べてもらえたことと、昔の話を繰り返し聞くことができて、うれしかったと感謝されました。多分、手術後もおいしいステーキをお食べ頂けたと思います。葬儀は私が執行しました。