東京都北区堀船1~3町目は、江戸時代の梶原堀之内村です。その「堂の前」には、宗福寺という寺があったと書きました(令和4年2022年1月6日 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/10992)。明治末までは石碑が残っていました。しかし、安政2年1855年の古地図には、すでに記載がないです。
また、梶原塚(墳)には眞龍寺があったと伝えられています。現在の、梶原ポンプ場です。父が住職になったあと、お檀家からの聞きとりが「堀船郷土史」(初版 昭和27年刊)にあります。石井鋘右衛門様(昭和26年1951年亡62歳)や石井與四郎様(昭和24年1949年亡74歳)によると、元禄年間(1688~704年)ごろは眞龍寺には尼僧が住んでいたとのことです。福性寺に移設された石碑にも「文政九年(1826年)・・・梶原眞龍寺」とあります。お二人は明治21年1888年や明治8年1875年ごろのお生まれでしょう。余談ですが、お名前の中の漢字「鋘」とは、農具のスキを表す漢字です。明治の中期の堀船が農村であったことがわかります。両家とも江戸時代初めからのお檀家で、お二人のお父様は江戸時代生れでした。
さらに、安政の古地図には、福性寺の西に、神明(神)社がありました。今は道路となっています。
江戸時代に梶原堀之内村にあった二つの寺院と一つ神社は今はありません。このように見てきますと、長い歴史のなかでは、小さな寺院や神社の統廃合は珍しいことではないようです。
最近、地方では寺院や神社がなくなってしまうと心配されています。大きなお堂を修理する財力がないのです。廃寺、廃神社ですね。人口の都市集中による過疎が大きな原因です。しかし、地方のお寺でも、宿坊を開設するなどで、運営・経営に努力されている寺もあります。
また、東京など都市では、マンションの一室やごく普通の住宅で宗教活動を行っている僧侶も多いです。お檀家ではない皆様のお葬儀を引き受け、法話を行い、仏教を布教して、皆様に安心していただいています。寺の支持者を作っています。東京開教などと言います。頑張ってほしいです。
都会の寺では、お檀家の少子化や独身者の増加により、お檀家に後継者がいないことが問題です。また、今までのような高額なお布施を頂くことができなくなりそうです。都会にありましても、福性寺のような小さな寺は、よく考えた運営が必要と思います(「小さな寺」の定義はお檀家や資産がすくない寺です)。
江戸時代、福性寺は住職がいることが少なく、明治時代は無住職寺でした。足立区沼田の恵命寺の住職が兼務していました。その後、王子駅付近に抄紙会社(明治6年渋沢栄一子爵)のちの王子製紙などができて、郷戸(堀船1丁目)に長屋が造られ人口が増加してきました。大正6年1917年から、上東野昭良師(父の叔父)が住職となりましたが、その後も、無住職の時代がありました。
現在、起きていたり、これから起きようとしている寺院や神社の統廃合や、新しい寺院や神社をつくる開教・創建は、歴史の流れの中で普通に起きてきたことのようです。諸行無常です。大騒ぎをせずに、与えられた仕事をたんたんと果たしていきたいと思います。
神明社と梶原塚が古地図にあります。すでに宗福寺はありません。
平成29年2017年10月26日 梶原堀之内村の安政時代古地図(国立国会図書館所蔵) https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/772
廃寺について書いたことがあります。
平成30年2018年11月21日最近流行?の永代供養2 11月9日の続きですhttps://fukushoji-horifune.net/blog/archives/2005
平成31年2019年2月3日江戸六地蔵様のお寺で法類の先師供養法要https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/2595
令和2年2020年2月11日「住職!カッコ悪いよ!!」 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/5388