安倍晋三元首相の殺人・暗殺事件に関する宗教問題について私の意見は?、とのメールをありがとうございました。また直接のご意見をありがとうございます。確かに坊さんからの意見がない?書きたいことは多いです。しかし、あまりにも政治問題化していますので、時間が経ちましてから書きます。ごめんなさい。
別のお話です。
大晦日やお祭りのお寺やお宮での大騒ぎ、落語・漫才、歌謡曲会などいろいろな催し物が寺や神社で開かれます。若いころは「宗教を娯楽にしなくても」と、考えていたような気がします。例えば、施餓鬼会(せがきえ)の法要前に落語・漫才?エー!ちょっとなー!と言う感じです。
「堕落」とまでは思っていませんけれど。法話でも、大きな笑ばかりが起きる法話もいかがなものかなと。
これは幕末や明治時代に日本を訪れた外国人:西洋人、特にキリスト教宣教師と同じ視線だったのでしょうか。また、高学歴知識人・科学万能主義者を自認する一部の人の視線でしょうか?
ところが住職になってからは、笑ばかりの中にも、日本人の何かが隠れているように思うようになりました。
お寺での落語やポピュラーソングの終わった後の法要で、参加の皆様の読経や真摯なお焼香の様子を見ると、これ(楽しみ+安心)が仏教なんですね!と思うようになりました。
それでも、飲酒後の大騒ぎ、度の過ぎた様子は仏教的ではないかな?と思っていますけれど。
仏教の土着化・日本化などと面倒なこと・理屈はいいません。宗教学の先生は、これを宗教とは言わないかもしれません。しかし「四季折々に墓参を重ね、お仏壇に手をあわせて、故人と対話する」これは間違いなく宗教です。
仏や神に近いほど神聖・正統、教祖・教義に近いほど神聖・正統、思想の原則に近いほど正統とも考えなくなりました。
単に老化が進んだだけでしょうか。
学術集会の講演中のジョークについて機会を見て書きます。
「祇園精舎」の寄進 国際医学会では必ずディナーと「お楽しみ」があります。 令和2年2019年3月4日国際学会でも祇園小唄 月はおぼろに東山 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/2803