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2017年1月11日

江戸時代からの本堂 明治36年(1903年)の福性寺 

古い時代の福性寺の絵が見つかりました。写真は明治時代の福性寺です。本堂は江戸時代に建てられました。明治時代は、ほぼ無住職の寺でした。大正6年(1917年)に、上遠野照良師(父の叔父)が住職として住むようになりました(大正10年まで)。しかし、その後も無住職の時代があり、貧しい寺でした。

明治4年(1871年)の「上知令」関連の書類では、すでに江戸時代のいつごろ、この本堂が造られたのか不明とされています。寺の歴史は、わからないことが多いです。それでも、福性寺住職は、勝手に「歴史や言い伝えを作ってはいけない」と考えています。

明治36年の福性寺

明治36年(1903年)の福性寺 江戸時代から関東大震災大正12年(1923年)まで 

本堂はこの時代でも高い盛土の上にあることに注目して下さい。堀船の旧梶原堀之内村の本村(現在の堀船3丁目など)は、水害によく襲われました。このため、水害から本堂を守るために、江戸時代から続くお檀家(堀江家、石井家、小泉家、澤部家、大郷家など)のご先祖様たちが、額に汗して土を運び、土を盛り上げる奉仕により、本堂を高い盛土の上に建築したことが理解できます。

それでも、明治43年(1910年)の水害(「明治43年の大水害」)では、本堂の床上浸水が記録されています(堀船郷土史平成増補版)。

大正13年(1924年)に岩淵水門が完成し、荒川放水路(現在の荒川)への注水により、洪水は劇的に減少しました。

本堂の屋根は茅葺きでした。関東大震災前に屋根を瓦葺きにしました。このためか、関東大震災でこの本堂は倒壊してしまいました。茅葺きの本堂!想像ができません。

門は木製の簡易なもので冠木門と棟門の中間のような形です。

本堂に通じる中央参道は狭く、墓地がせまっています。現在は部分的に広くなり植栽があり庭となっています。お墓を小さくしたり移動して頂きました。

墓地は生け垣により道と隔てられ、背の高い木が何本も見えます。また、小さなお墓も多数見えます。庫裡の右前には芭蕉の樹と、その前に釣瓶井戸(つるべいど)があります。現在の福性寺からは全く想像ができません。まさに諸行無常です。

この絵は100年以上前の明治36年(1903年)に配布されました。このため、明治37年に移設された梶原塚の宝篋印塔は見えません。なぜか六地蔵塔も見えません。この絵は版画か印刷物です。何の目的のためにこの絵が作られたのかは不明です。


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