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2019年7月23日

来歴の書かれたお墓 二百年前の住職と鶴岡市 川上記?

墓地の散歩は楽しいです。一日一度は墓地を歩きます。あちこちに、お戒名、お名前(俗名)、お命日が書かれています。なつかしいお名前を見ることができます。もう、住職を40年間務めていますから、当然ですね。

ところで、ヨーロッパのお墓では、故人の生年月日があることが普通です。また、ポートレート(陶器に焼付)もあります。しかし、日本では故人の生まれなどについては、記述がないことが普通です。これは僧侶のお墓(「世代様」のお墓とも言います)でも同じです。江戸時代のお墓は9基あります。この中に、唯一、来歴が書かれた墓石があります。「明範師」のお墓(写真)です。以下の水色文字部分が墓石に書かれた部分です

明範師のお墓

明範師のお墓 台の石に明範師の来歴が書かれています

竿石には、文政四年十月(過去帳には八月)九日 1821年です。お命日ですね。権大僧都法印(僧綱の位) 明範 霊位

台石には、生所 羽州田川郡庄内城下 (山形県鶴岡市) 川上四良右ヱ門倅元 栄七 □□ 寂ス (「□□」は「之ヿ:これこと」でしょうか)四良右ヱ門の七男であったのでしょう。師匠(は)江戸深川 不動院 木食賢明 法印也 

200年ほど前に亡くなった「明範師」の師匠の賢明師は、梶原墳(太田道灌の子孫の墳墓)の如意輪観音様とお大師様の両石塔の建立(文政9年1826年)の願主(仏に願をかけた人)になっています。また、梶原墳(塚)の宝篋印塔の再建時(天保2年・1831年)の開眼導師もしています。「明範師」は師匠よりもかなり早く亡くなっています。

しかし、深川不動院と言う寺の所在は不明です。現在の深川不動堂とは異なるようです。

少し調べてみました。

お墓に書かれた文章からは、「明範師」は、現在の山形県鶴岡市出身であることがわかります。父親は、河(川)上四良右ヱ門で、町大庄屋でした。河上家は代々大きな力を持った庄屋でした。なお、四良右ヱ門は、河上家の代々の通り名(とおりな)で、明治維新以降も続いています。年齢的に考えると、八代目和哀(1824年死亡)の子であろうと思われます。

河上家の菩提寺は、鶴岡市昭和町の洞泉院であると「川上記 上」(下記)に書かれています。なぜ、福性寺の住職になったのかなど不明です。鶴岡市に出かけたいですね。

来年は200回忌!となりますね。今年の「明範師」のお命日には、墓前で読経をするつもりです。

以上の記事は以下を参考にしました。

〇「近世後期庄内藩預地の郷宿」本間勝喜著 東北公益文科大学総合研究論集(通号2)2001 pp.59~89 【Z71-F47】の62ページhttp://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000235139

〇「鶴岡市史資料篇 荘内資料集9 鶴ヶ岡大庄屋 川上記」 上巻43~50ページ(斎藤正一著)。この資料のPDFを、「鶴岡市郷土資料館」今野章様から頂戴し、また内容についてもご教示頂きました。記して心から感謝を致します。なお「川上記上・下巻」を市役所から購入しました。

以上は「福性寺の歴史」の次の版=第7版に掲載予定です。

この文章を書いて思い出したことがありました。次回以降に書きます。


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