前回の記事に「この記事は山口史恭師にも読んで頂く予定です」と書きました。令和3年2021年4月7日「死後はどうなるんですか?」https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/8592
以下が、この記事を山口史恭師に読んで頂いた後の山口師からのメール(4月9日到着、青字部分)の一部です。

本日夕方の福性寺涅槃仏様 身長は195㎝ 私よりも長身です 平成3年1991年先代住職周誉師の13回忌法要時に開眼供養 小田弘毅師 石井秀誉師 星俊光師 矢田正幸師 平本省吾師 総代様 寺族による寄進
(前回記事中の山口師の文章:青字)引用拙文のうち「そしてあらゆるイメージに変化しながら(等流身)」という部分に解答がしのばせてあります。中の「等流身(とうるしん)」という言葉は、詳しくは「等流法身」といい、大日如来が遍在(どこにでもいつでもある)していることを示す専門用語です。簡単に言うと、大日如来はあらゆるすがたをもって現世に顕在している、逆に言うと、現世のあらゆる事象は大日如来のあらわれ、という意味で用いられる言葉です。密教(真言宗など)独特の汎仏論です。
ですので、引用拙文の後半の「いつでもどこからでも、遺族・子孫を見守っている」とは、大日如来として遍在している故人が、遍在しているので特定のどこというわけではないけれども、逆に言えば、どこからでも見守ることが可能という意味です。その「どこから」には、当然、遺族・子孫らが住む現世も含まれます。
よって文中に、「時には帰ってきて」と挿入することも可能で、そのほうがお檀家さまが納得しやすいかもしれません。「いつでもどこからでも、時には帰ってきて、遺族・子孫を見守っている」と。※「かえる」という動詞にあてる漢字は、正しくは「還る」でしょうが、お檀家さまには「帰る」が適当かと思います。
有難い山口師のご説明でした。山口師は、皆様にご理解を頂けるか少しだけご心配の様子でした。
施餓鬼会の予約状況:今年の施餓鬼会は4回行います。施餓鬼会にご参加の予約ハガキの締め切りは4月10日です。4月23日、24日の午前中は満員です。午後は数名づつのご参加が可能です。