前々回の記事の中の縁起法頌=法身偈のご説明を大正大学名誉教授・大王寺住職 高橋尚夫先生から頂きました。
令和7年2025年8月5日大王寺様 涅槃仏様参拝(春日部市)https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/30416
皆様におすそ分けを致します。
サンスクリット語のローマナイズ部分は省略しました。
縁 起 法 頌
諸法従縁起 如来説是因 諸法は縁より起る 如来は是の因を説きたまう
彼法因縁尽 是大沙門説 彼の法も縁に因って尽きる 是れ大沙門の説なり
ये धर्मा हेतुप्रभवा हेतुं तेषां तथागतो ह्यवदत्।
तेषां च यो निरोध एवंवादी महाश्रमणः॥
諸法は因より生じるものであり、実に、それらの因を如来は説いた。
また、それら[諸法]には滅があると、大沙門はこのように説く。
縁起法頌(えんぎほうじゅ)
法身偈(ほっしんげ)とも言います。お釈迦様のお弟子のアッサジ(馬勝)が托鉢をしていました。そのころ別の師のもとで修行をしていたサーリプッタ(舎利子・舎利弗)がその姿のあまりに尊いのを見て、「あなたの師は誰で、どのような教えを説かれる方か教えて欲しい」と尋ねました。アッサジは「自分はまだ弟子になって浅く、詳しいことは申せませんが、師はいつもこのように仰っておられます」といって示したのが、この縁起法頌というものです。これを聞いたサーリプッタは修行仲間のモッガラーナ(目連)にも伝え、二人してお釈迦様の弟子になりました。後に智慧第一の舎利弗、神通第一の目連といわれる二大弟子になったのです。
縁起とは、通常は「縁起がいい」とか「ご縁があって」などと使いますが、仏教にとって一番大事な教えです。縁起とは文字通り「縁(よ)って起こる」ということで、この世のあらゆる物事には必ず因と縁とがあって結果があります。そして、因と縁とがなくなれば結果もなくなります。当たり前のようですが、とても大事なことです。私というのも必ずどこかでつながっているのです。そのつながりを絶つことなく、できるだけつなげていくことが大切なのです。
おれがおれがのがを捨てて おかげおかげのげで暮らす
今日の記事は毎回の記事より格調が高いですね。いかにも、お寺のホームページの記事らいしです。文章をいただいた高橋尚夫先生に感謝致します。
前回の訪問時には、涅槃仏様はありませんでした。
令和6年2024年10月6日金木犀(きんもくせい)ではなくって銀木犀https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/25241
福性寺の涅槃仏様の台には光明真言があります。
令和7年2025年1月5日もうビックリ 世界最大級https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/26506