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2025年9月26日

11月8日(土)合同講演会のチラシ

11月8日(土)合同講演会のポスティング用チラシができました。檀家様信徒様には10月半ばに郵送します。10月の後半にポスティングします。配布範囲は福性寺から半径2㎞の範囲です。

2時から福性寺主催「福性寺健康長寿講演会」です。男性に最も多いがん(罹患率)、前立腺がんのお話です。講師は埼玉県立がんセンター病院長影山幸雄博士です。

3時から堀船郷土史を語る会主催「歴史講演会」です。演題は『史跡「梶原の渡し」最後の乗船客』演者は福性寺住職。

「梶原の渡し」は明治維新後の殖産興業政策による軽工業の発展にともない堀船に新設された下野紡績(後の三重紡績、その後の東洋紡績)の工場への通勤手段として、明治42年(1909年)に開設されました。工場では、宿舎があると同時に通勤工も多かったようです。2300人もの工員が働いていました。しかし、豊島橋と小台橋の架橋とバス路線(京北乗合自動車)の開設があり、東洋紡績王子工場の閉鎖により、乗船客は減少しました。つまり、交通機関と重工業の発展および船舶の増加により、昭和36年(1961年)に終了しました。東京府知事への「梶原の渡し」開設に関する請願書の筆頭の願人は、堀船の石井惣吉氏(福性寺檀徒)、保証人は宮城の下川金太郎氏と阿出川伊三郎氏(江北村村長)でした。「梶原の渡し」は「合名渡船場」として開設され、世話人と多数が株金の出資者で会社組織でした。名称は「梶原の渡し」ですが、開設後の法人役員は宮城側の人々で、運営の主体も宮城側にありました。紡績工場への通勤ばかりではなく、駒込青物市場への野菜の運搬、軍需工場への通勤や梶原銀座商店街への買い物にも使われました。五色桜の季節には応援の船が出ました。また、敗戦後の堀船の子供にとっては、宮城は草原や池のある楽しい遊び場でした。「梶原の渡し」は北区では最後の隅田川を横断する渡し場でした。現在でも「梶原の渡し」は、渡し船に乗船したことのある堀船や宮城などの70歳以上の皆様の楽しい思い出となっています。

ポスティング用チラシの表

ポスティング用チラシの表の面

チラシの裏

チラシの裏面

健康長寿と郷土史の講演会については「お寺の発展につながらないのでは?」との意見を聞きます。

「そうでしょうかねー・・・!」「(意味不明な)笑」が私の答えです。

「お寺の発展の定義は?」文化と歴史とか、勉強すると楽しいです。

すでに施餓鬼会の中での「健康長寿講演会」は、50回(年)近くになります。ご参加頂きました檀家様、信徒様、地域の皆様に感謝致します。

令和6年2024年11月11日お供物が足りなくなりそう 合同講演会https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/25604

令和5年2023年11月11日胃がんエキスパートと堀船郷土史博士https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/20512

史跡「梶原の渡し」について12回にわたり記事を書きました。

令和7年2025年2月28日梶原の渡し(12)現在の渡し跡 左岸https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/27284

「(意味不明な)笑」は、「議論したくない」です。


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