境内にある梶原塚供養塔の「如意輪観世音」について書きました。福性寺に梶原塚(墳)の石塔が移設されていることはよく知られています(明治37年1904年)。都電の電停「梶原」や、江戸時代の「梶原堀之内村」は、この梶原塚にちなんでいます。以下前回の記事です。
令和元年・2019年11月5日 「梶原塚(墳)供養塔の如意輪観世音像 小さな歴史」 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/4632
如意輪観世音像左側には、お大師様の執錫杖像(執錫杖大師)があります。
以下は先代の周誉師が読み取ったメモです(黒字)。算用数字は刻銘の行目を表します。カッコ内は私の説明です(緑字)。青字は周誉師の解説です。
「弘法大師執錫杖像石塔の刻銘」
1 紀州高野山 2 往生院谷四十九□(□は院か?)
3.4 延命寺本尊 弘法大師入定 承和二年三月
5 彫刻尊躰此地 奉(尊躰を彫刻してこの地に)6 彩者也 (奉彩:斎?するものなり・つつしんで祀る)
7 文政九年三月二十一日(1826年、三月二十一日は大師の入定日)
8 両尊(如意輪観世音像と弘法大師執錫杖像)建立 願主 賢明
9.10.11 武州国豊嶋郡 梶原堀之内村 梶原墳 眞龍寺(かって梶原塚にあった寺)
周誉師の解説があります。
一、大師像の頭上に梵字真言(地蔵尊真言)の刻銘あり(地蔵尊真言は、以前、記事を書きました。令和元年・2019年10月22日 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/4560 現在も真言は読むことができます)
二、此の石刻字は摩滅甚だしく、朝日の陽光照射する前七・八時頃(春五月にて)でなければ明らかに見えない。
三、銘記の文政九年は1826年にして、三月二十一日は大師の入定日なり。
なお、すでに二つの石塔の表面は、写真のように風化して、表面が剥がれてきています。今後は刻銘を読むことができなくなりそうです。父が読んだ50年前にも読むことができない字(□)がすでにあります。
約200年前に建立された石像の仏様です。しかし、この像や建立者である木食賢明師について、父や私は、お檀家からお聞きしたことがありません。また、95年後(=大正10年・1921年)に亡くなった上東野昭良師(父の叔父)から、父は賢明師について何も聞いていません。
賢明師はどのような方であったのでしょうか?高野山からお大師様を奉斎し尊像を造立した真言行者!江戸の町から離れた梶原堀之内村に一人の熱心な真言行者がいたことはわかります。ちなみに本郷「かねやすビル」(川柳「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」)から福性寺まで6Km、徒歩で1時間半弱でしょうか。
「郷土史」や「庶民史」はすぐに忘れ去られてしまうようです。今後も福性寺では、旧梶原堀之内村・旧船方村や堀船の歴史、また福性寺自体の歴史を記録していこうと考えています。さいわい、今後も「堀船郷土史を語る会」による研究会活動が続けられ、郷土史の発刊も続けられ(「堀船郷土史平成増補版」の続編)、堀船の町の皆様のご支援もあります。誠に有難いです。
今回の記事は「福性寺の歴史第8版」に掲載予定です。