「仏教徒海外奨学基金」の収入は以下の寺院と有志からです。與楽寺(北区田端)東覚寺(田端)寿徳寺(北区滝野川)釈迦院(千葉市若松区若松)金乗院(野田市清水)守樸庵講座(金乗院内)東福寺(豊島区南大塚)西福寺(北区豊島)西福寺写経会(西福寺内)清光寺(豊島) 福性寺(堀船)福性寺読経会(福性寺内)、このほか寺院有志2人、寺院以外の有志2人、その他の寄付金からです。平成3年1991年設立です。
在インドのチベット人学僧個人から、今年配付した「仏教徒海外奨学基金」の9000ルピー(約1万6千円)の領収書が、次ぎつぎに到着しています。総額は42万円です。奨学金が、どこかでなくならないため(よくあります)に、受領者自身から領収書を頂いています。
ところで、封筒の切手には、軍服のチャンドラ・ボース(明治30年1897年1月23日 – 昭和20年1945年8月18日)の肖像画がありました(写真上)。大学生時代からチャンドラ・ボースについては、人に話したいことが多々ありました。
小さな切手にもかかわらずNetaji Subhas Chandra Boseと書かれていることに気づきました。Netajiは指導者。アジア・太平洋戦争中、インド・パキスタン・バングラデシュ・ミャンマー(イギリス領インド帝国)・スリランカ・ネパールを永年にわたり支配していた強大な帝国主義国家(イギリス)の敵である新興の帝国主義国家(日本)とともに「インド国民軍」を率いて戦った人です。敵の敵は味方というわけですね。一方、ガンジー(非暴力・不服従)は日本の帝国主義を、アジア人の立場から非難をしています。
しかし、最近の研究によると、インド独立はガンジーやネルーのインド国民会議派によるインド国内での運動よりも、チャンドラ・ボースのインド国民軍と戦後の反乱によるところが大きいとう意見もあるようです。
その証(あかし)として、インドの国会議事堂の正面には、チャンドラ・ボースの肖像画がガンジーとネルー(写真下)の肖像画と共に掲げられているとのことです(米田文孝他2002)。見たことのある方は写真を下さい。なおガンジーの肖像画は、私の部屋にもあります。
日本が敗れたために、インド独立は昭和22年1947年まで遅れました。インド独立のために色々な国家と連合しようとしたチャンドラ・ボースですが、それでもインドにとっての最良の選択肢は民主主義であると明確に述べています。
台湾で事故死しました。お骨とお墓は蓮光寺(杉並区)にあります。インドの要人が、訪日のたびに訪れています。チャンドラ・ボースの「情熱」にとても魅かれる人が多いようです。私を含めてです。
インド独立後も、ポルトガルが支配していたインドのゴアなどが「武力解放」されたのは、1961年です。500年間近いゴア支配でした。子供のころの新聞では、ゴア開放は第一面のトップ記事でした。平和的な手段だけでは、解放できなかったと記憶しています。その後も米国・英国は、インドによるゴア回復に反対していました。
インドの人々がなかなか西欧諸国と意見が一致しないのは、あいかわらず当たり前かなと思っています。
令和4年2022年5月25日 合掌 インドのモディ首相 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/12475
米田文孝,秋山暁勲.伊号第29潜水艦とスバス・チャンドラ・ボース. 関西大学博物館紀要(2002)8:p1₋57論文のp47に「1978年には国会議事堂中央大ホールにマハトマ・ガンディーやジャワハルラル・ネルーらの肖像画と並んで、S.C.ボースの肖像画が掲げられた」とあります。