前回、昭和20年1945年前後の父母と福性寺などについて書きました。関連して私の中国旅行について書きます。思い出はとても多いです。なにしろ中国には12回も出かけましたから。
初めての中国旅行は、昭和62年1987年に一人で出かけました。西安市の慈恩寺(玄奘三蔵の訳経の寺)や青龍寺(恵果阿闍梨:弘法大師様の師)などに参拝のためです。
2回目は昭和63年1988年山西省腫瘤医院(太原市)と珠海市(IAP中国支部会)など食道癌に関する招待講演旅行。
3回目は平成元年1989年の3か寺合同団体参拝です。その後も家族旅行や、平成8年1996年には、母のセンチメンタルジャーニーに付き合いました。
いつも友人の山西省腫瘤医院の病理科部長が空港に迎えに来てくれます。ガイドと運転手さんと4人旅となります。埼玉県立がんセンター研究所で3カ月間、机を並べ、毎日昼食を一緒しました(1987年)。病理科部長の中国の友人も私の友人です。私の退職講演会(平成27年2015年)でも講演してもらいました。友人も来ました。
ホテルの部屋は彼と同室して節約します。彼からのメールでは「Elder brother(兄貴?)」と私を呼びかけます。「十八史略」と「三国志」を読み込んでいます。近代史・日中戦争についても精通しているつもりです。こんなことから「兄弟」と呼ばれても「そうかな」と。ガイドさんよりも中国の事象に詳しいことが多いです。なんでも、かなり突っ込んで話します。しかし、お互いが愛国者ですから、歴史認識や意見の相違も多々あります。私は日本人でも外国人でも、愛国者を尊敬します。
今回は家族旅行について特に書きます。家族は2回(平成4年1992年8月・1994年5月)連れて行きました。
弘法大師様と関係の深い青龍寺、大興善寺(不空三蔵・理趣経の翻訳、当時の住持慧雨師)、興教寺(玄奘三蔵遺骨塔、常明師)などの現状を見ました。お大師様の国際人としてのスケールの大きさを知ることも課題です。また中国では「どのように寺院が扱われているか」も大切な課題です。
明(時代)の万里の長城、周口店博物館(北京原人)や盧溝橋(日中戦争の発火点)では、特に時間をとって見学しました。
周口店は石灰山でした。博物館がありましたが、「一体分の人骨」の展示はありませんでした。他の見学者が「漢方薬として飲んでしまった」と冗談を言っていました。もちろん嘘だと思います。本当ですかね?動物は一体分の標本がありました。
北京郊外の盧溝橋(マルコポーロブリッジ)の欄干は獅子です。とても美しい橋でした。
訪れた2回とも、永定河の流れはとても細いものでした。橋の手前に「体重計屋さん(老人)」がいましたので、さっそく子供を体重計に載せて、料金を払いました。1元だったでしょうか。また「日本軍が橋の向こうから来た」と橋を指さす老人がいました。
盧溝橋から10分ほどの「中国人民抗日戦争紀念館」も行きました。とても巨大です。たくさんの生徒が「抗日」の歴史を学びに来ています。列をなしています。国民党はあまり出てきません。
子供をつれての中国旅行は、日本との歴史的な関係の深い場所を選んでいました。若い世代が中国との歴史を知っておくことは、大切と考えています。しかし、日本からは中年・老年の旅行者が多く、子供連れはまれでした。
それでも、子供にとってはホテルで深夜までテレビを視たり起きていることができる単なる物見遊山であったと思います。物見遊山も大切と思っています。
私が出かけたころの中国旅行には、必ず通訳(ガイド)が一人か二人ついてきました。いずれも親切、つまり私の希望をかなえようと努力してくれました。家族旅行の1度目のガイドは大学新卒でした。初めてガイドをすると言っていました。2回目の時に偶然餃子屋さんであいました。子供の成長を喜んでくれました。
2回目は子供のいるお母さんガイドでした。いつも小さな子供をつれてきていました。運転手、ガイドさん親子、友人医師と家族の5人の9人旅でした。彼らにも日本人というものについて学んでもらうつもりで旅行しました。
ガイドの料金はツアー代金に含まれています。それでもヨーロッパ旅行と同様に、運転手とガイドさんには何らかのチップを渡すようにしています。
団参などについては、これから書きます。
平成8年2020年6月8日 天安門事件31周年 中華人民共和国旅行https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/6139