終戦の日にちなんで、昭和20年8月15日とその前後の福性寺について書きます。特に、終戦のころの父母についてです。父母からの伝聞です。私は戦後生まれ、団塊の世代です。父が日本に帰国してからの子供です。
父は大正9年1920年から1年3ケ月ほど福性寺にいました。大学で勉強することができるので僧侶になったと話していました。しかし、師僧の死亡により巣鴨の真性寺に移りました。
サンスクリット:梵語を学ぶ旧制の大学院(研究室の副手という地位です)を終了しています。大学を卒業後、6年間の課程です。
中国の思想の混じった可能性のある漢訳経典ではなく、釈尊(お釈迦様)の話していたパーリ語や梵語を学ぶことに生きがいを見出していました。
宗派内での長期留学の順番が回ってきていました。しかし、戦争と戦後の混乱のために、その機会を逸しました。留学の予定地はフランスだったようです。英語と中国語が得意で、フランス語も聴講していました。
父は昭和15年3月に福性寺に着任しました。大学院を修了して3年目でした。
しかし、昭和16年1941年7月から1年4カ月の間、旧満州におりました。さらに昭和19年6月から1年9カ月、日本と敗戦後の国民党支配の期間を含めて開封市にいました。帰国は21年4月でした。
戦前、昭和20年8月前は、福性寺に住職として腰を落ち着けて生活することができず、約6割の期間は、中国にいたことになります。父の得意は、開封は水路と堀の多い都市で、そこに飛来するカモをよく食べたと話していました。戦闘の話は聞いたことがありません。旧満州と開封は長く日本の統治下にあり、平和(戦闘のない状態)だったようです。
戦地では、自分の学びたい梵語の研究ができずに、つらかったと話していました。その後、昭和21年4月に佐世保に米軍の上陸用舟艇に乗って帰国しました。佐世保から王子までの汽車や電車の中で「兵隊さんご苦労様」と何度も言われたと話していました。「恥ずかしかった」とも話していました。東京までの汽車の切符は無料でした。
王子駅に着くと、プラットフォームから福性寺の本堂全体がよく見えたと話していました。東京大空襲の結果です。しかし現在の本堂になってからも、塔は見えていました。
書いてきました通り、父は終戦の日は福性寺にいませんでした。
母と姉(4歳・2歳)が寺の留守番でした。留守中の母の自慢は、三つあります。空襲警報のたびに、ご本尊様を本堂から防空壕の奥にしまって、自分たちは入り口近くにいたことです。防空壕は母が一人で造った粗末なものであったとのことでした。父の留守中の寺は意外にいそがしく、葬儀や年回忌法要が多かったのですが、他の寺の僧侶に任せたために、宗教・寺院収入がなく、それでも寺を守ったことです。三つ目は、昭和19年に発行した父の著書「批判悉曇学」をリアカーに積んで、三郷市の延命院に運んだことです。
母は昭和20年1945年8月15日の玉音放送は、よく聞こえず、また意味がわからなかったと話していました。
父は「シベリアに抑留された」と言われていました。宗派からの情報です。母は私に何度も話していました。
父に聞くと旧満洲に出張命令が来たが、その前に終戦になったらしいです。確かに出張になれば、シベリア抑留となっていたと思います。
突然の帰国で、母の喜びが目に見えるようです。庫裡(くり、住職住まい)で一服した後、墓地を見まわろうとすると、長姉が「おじさん帰るの?」と尋ねたそうです。
その姉も亡くなって福性寺帰ってきました。
令和4年2022年8月16日8月15日「さきの大戦」「太平洋戦争」「アジア太平洋戦争」や「大東亜太平洋戦争」 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/13527
平成30年2018年8月15日終戦の日8月15日 堀船地区遺族会 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/1660
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