「梶原の渡し」について書いてきました。一次資料を精査していません。しかし、写真は当時のままです。もう少し続きます。
すでに、梶原の渡しより上流の「豊島の渡し」には、大正14年1925年に、最初の木造の旧豊島橋が架けられていました。現在の豊島橋より上流です。
昭和6年1931年ごろには、京北自動車株式会社が設立され王子駅に出ることが容易になりました(註1)。
下流の「小台の渡し」に、小台橋が最初に架橋されたのは、昭和8年1933年で、関東大震災後の都市復興事業により架橋されたと言われています。
それでも、東洋紡績王子工場へ通うためには、梶原の渡しの役割は大きかったようで、すでに書きましたが渡しは会社組織で運営されていました。
しかし、戦後はバス路線の拡充などの交通手段の整備とともに、通勤のために渡しが使われることは少なくなったようです。昭和29年1954年に会社組織は解散しました(註1)。
堀船郷土史平成増補版(註2)によると、東洋紡績王子工場は、昭和16年1941年11月に操業を停止し、昭和17年1月から東京第一陸軍造兵廠に敷地建物の一切を賃貸していました。
戦後は大蔵省の管理で工場として利用されることがなく、無人状態で通勤客はまばらでした。昭和27年1952年4月に大蔵省から東洋紡績に返還となりました。昭和28年1953年に工場を廃止しました。
このため、東洋紡績王子工場への大量の通勤客を失いました。
(註1) 高梨輝憲「わが町の昔を語る」167-168. 昭和48年1973年4月188ページ
(註2)松下豊 東洋紡績株式会社広報グループ「東洋紡績王子工場について」.堀船郷土史平成増補版。平成28年2016年10月福性寺刊