先日、病気に悩むお檀家(高齢男性、難病です)との会話の中で、そのお檀家の主治医に対するご意見=評価をお聞きしました。評価が低い時にお返事に困ります。
このような時、Ambroise Paré(1510~90)の言葉を紹介しています(孫引きで、本当にParéの言葉である原著を読んでいません)。実は、ほかのお檀家にも、何度も話したことがあります。「To cure sometimes, To relieve often, To comfort always」、「時に治し,しばしば苦痛を和らげ、常に慰める」、医師は時々(sometimes)病気を治すことができる。医師は病気を治すことは、いつもできる訳ではないのです。患者の症状(痛みなど)をやわらげることは、しばしば(often) できます。患者に慰めを与えることは、常に(always)可能ですね。この言葉は医学・医療の本質を表したものとして、医師の間では、よく知られています(と私は思っています)。医学部の医学概論や医学史の授業で習うことがあるからです。なお、Ambroise Paréは哲学者ではなくて外科医として知られています。
釈尊(お釈迦様・ブッダ)の説法は、全て「To comfort always」だったのですから素晴らしいです。と言うよりも、「To comfort always」「安心」のための釈尊の説法でした。ところで、「慰めを与える」ことは、人であれば、医師資格の有無とは無関係に、誰にでもできますか?そのためには、相手をよく知っていることが前提ですか?
最近、大きな法要で、法話を依頼されます。「To comfort always」ができません。後日、もう少し書きます。
昨日(5月24日)は東大和市で施餓鬼会の式衆でした。「式衆」の説明は以下にあります。
(https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/2068)
7月や8月ではなくて、春に施餓鬼会を行う寺が増えました。「暑い施餓鬼会から涼しい施餓鬼会に」の記事は下記のリンクです。昨日は夏のような暑さでした。
( https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/1553)