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2020年6月27日

梶原堀之内村 水野藤右衛門と水野信定 寺には郷土の歴史があります

福性寺のある東京都北区堀船は、江戸時代は梶原堀之内村(現在の1~3丁目)でした。徳川家の家臣である水野家などの知行地(所)と寛永寺の寺領から成り立っていました。なお、水野家は鷹匠と聞いています。船方村(堀船4丁目)は寛永寺の寺領でした(「堀船郷土史平成増補版」平成28年)。

水野信定様の墓(聖観音菩薩) 延宝8年1680年建立 左手に蓮華(つぼみ)をお持ちです 水野家のご先祖様と離れて知行地の寺に埋葬されました お戒名は「慧〇院殿浄〇〇〇大禅定門」です お殿様のお戒名です 後ろは納骨堂「白宝殿」です 永代供養のお骨を安置しています

水野信定様の墓(聖観音菩薩) 舟形石塔の高さは150㎝近いです 左手に蓮華(つぼみ)をお持ちです 水野家のご先祖様と離れて知行地にある福性寺に埋葬されました お戒名は「慧〇院殿浄〇〇〇大禅定門」です お殿様のお戒名です 後ろの建物は納骨堂「白宝殿」です 永代供養の仏様(お骨)を安置しています

ところで、水野家の当主であった水野藤右衛門・信成の長男信定の墓は、福性寺にあります。延宝8年(1680年)のお命日が書かれています(写真)。ホームページの「境内のご案内」にも写真があります。また、信定は剣の達人であったと伝説されています。

水野家の菩提寺は、本駒込の吉祥寺です(先代住職からの伝聞)。しかし、信定は菩提寺ではなく知行地の福性寺に埋葬されました。武家諸法度(1615年)により菩提寺に埋まることができなかったのでしょうか?

別の記録ですが、水野藤右衛門・豊信(慶長3年・1598年亡)とその子孫についての記述が「寛政重修諸家譜、略称:寛政譜」にあるそうです。水野家の当主・藤右衛門は「通し名」と思われます。代々が同じ名前ですね。豊信は、信定や信定の父親(信成)の3・4代前のご先祖様でしょう。福性寺の過去帳(霊監簿)によると、信成の父(信定の祖父)は信秀です。

豊信は徳川家康に仕え、家康の関東移封に従い武蔵国豊嶋郡(現在の北区、荒川区、豊島区、板橋区、練馬区の一部)に知行210石を与えられたとのことです。子孫は江戸旗本となっています。1石は大人1人が1年間に食べるお米の量ですね。

豊信(関東に移る1598年)・・・信秀→信成(吉祥寺)→信定(福性寺1680年)が系譜となります。

水野家に従って梶原堀之内村に来た農民の子孫や寛永寺の関係(お檀家からの伝聞)のお檀家は、現在、お檀家の15%近くを占めています。この方々は、水野姓ではありません。しかし、水野家の家紋である「澤瀉(おもだか)紋」(の派生系)を使用しています。最も古いお檀家は18代目です。また、それぞれがお仕事に精勤されて、実に立派なお檀家・ご一族の皆様です。

寺には郷土の歴史があります。

「観音菩薩」「観世音菩薩」についての過去記事は以下です。

平成30年2018年12月3日谷津大観音 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/2068

令和元年2019年11月5日 梶原塚(墳)供養塔の「如意輪観世音像」小さな歴史 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/4632

令和2年2020年1月20日  記事の中にある「観世音菩薩真言」とは何ですか?「梵字悉曇」平川出版社1981 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/5201


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