だいぶ昔にいただいた質問です。長くお待たせしてしまったことを、おわびします。以前にも、おわびを書きました。
質問の要約は以下です。仏教の「諸行無常」からは「永遠に残るお墓」はありえないと思います。お墓やご遺骨の「永代供養」や「永久護持」を仏教と言うことができますか?
厳しい質問です。仏教ではない、とのお考えと思います。
プライベートにはお返事をすぐに差し上げることはできたと思います。ホームページで公開することはできませんでした。
他のお寺、特に地方で懸命に境内維持をされている寺院の取り組みを否定することになってしまうのではないかと、これまでお返事を書くことができませんでした。しかし、リマインダーメールを頂きました。申し訳ございませんでした。
ご指摘の通り「諸行無常」の立場から見れば、この世に「永遠・永久に残るお墓」などあり得えません。あらゆるものは生まれ、変わり、やがて滅びる。これは仏教の根本の教えです。
私がかつて科学者・病理医として見つめてきた「生老病死」という科学的事実とも完全に一致します。
その意味で、「永代・永久護持」を「商業的(=言葉がきつくてごめんなさい)に謳うこと」に対して、仏教者として違和感を覚えるのは当然のことかもしれません。
言い訳のようでが、寺院が言う「永代」とは、本来は「永遠・永久」という意味ではなく、「家族に代わって、お寺が続く限り、責任を持って長い期間(あるいは一定の期間)供養をします」ということです。
また、「お墓を永代に残したい」という人々の気持ちそのものが、ただちに仏教的ではない(=間違っている)とは私は思いたくありません。大切な人を失った悲しみ(愛別離苦)から、形あるもの、思い出すことができるものを残したいと願うのは、人としてごく自然な感情と思います。
大切なのは、お墓を「人への執着を永遠化する記念碑」にしてしまわないことでしょうか。お墓とは、自分自身の存在を固定化・永遠化する場所ではなく、むしろ「無常を思い出し、先人への感謝といのちのつながりを味わう場」、人について言えば「死を意識することで、今をより良く生きるための場」として受け止められてきたのではないでしょうか。以前、「メメントモリの場」を説明しました。
姿・形あるもの、お墓は、いずれ無常の風に消えていきます。そこで手を合わせた記憶や、いのちの繋がりは、遺された人々の心に確かに受け継がれていくと思います。
最後に、実は質問者様のお考えに大いに心を動かされています。
質問者様、印刷物をお送りしたく存じます。ご住所をお教えください。
参考記事
令和2年2020年8月10日 自宅近くのお墓 心の平安をえるための場所https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/6637
令和5年2023年5月27日墓地でタマゴサンドとイス・ベンチ「スペースが空いたら寄付します」https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/18197
令和6年2024年5月15日 故人の曾孫さんが高校1年生になりましたhttps://fukushoji-horifune.net/blog/archives/23001
令和7年2025年9月14日「人間にしかできない葬送文化https://fukushojihorifune.net/blog/archives/30932
令和7年2025年10月8日お墓が近くにあって ノーベル賞受賞の報告https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/31282
本日午後は叔母の年回忌法要に三郷市まで出かけます。檀家様の年回忌法要は明日にお願いしました。



