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2025年5月29日

宝篋印塔と光明真言塔

福性寺は元来が洪水の多い農村にあった小さな寺です。小さな寺の定義は檀家様が少なく資産の乏しい寺です。このためか、歴史的な石塔は多くはありません。

名の知られた大きな寺に出かけると、江戸時代から、またそれ以前のたくさんの石塔があります。石塔に書かれた文字を読んで歴史(文化や社会のあり様と結びつける)としたいな!と思うことがあります。その寺の住職ではありませんからできません。

ところで、福性寺には梶原塚(=真龍寺跡)から運んだ石碑が6基あります。

1600年頃梶原塚(3)宝篋印塔 1831年天保2年に再興 1904年明治37年に福性寺に移設(堀船郷土史より)

宝篋印塔 高さが4m 台石の大きさが1.5m四方 梶原政景の死亡のころ(1615年)を(仮に)建立としています  天保2年1832年再興 明治37年1904年に福性寺に移設(堀船郷土史より)梶原堀之内村・堀船の皆様が大切にしてきた石塔です なにしろ地名の発祥の証ですから 他の寺院で見る宝篋印塔とかなり違う部分があります この点は個人的に聞いてください

何といっても立派なのは宝篋印塔です。次に光明真言塔です。あと、如意輪観音像・執錫杖弘法大師、さらに最も古い(=伝承)地蔵菩薩2基。

如意輪観音像・弘法大師執錫杖像は記事にしました。

令和元年・2019年11月5日 「梶原塚(墳)供養塔の如意輪観世音像 小さな歴史 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/4632

 令和元年2019年12月19日梶原塚(墳)供養塔の大師執錫杖(しゃくじょう)像 小さな歴史2 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/4957

もっとも古い地蔵菩薩2基の舟形石に書かれた文字は風化により読むことができません。

梶原塚は戦国時代の梶原政景(1548年天文17年生~1615年慶長20年元年亡)に関する遺跡です。梶原政景は太田道灌の弟(=道灌の養子?)の「曽孫の子供」らしい。

対岸の足立区宮城は、政景の父太田資正に仕えた宮城氏の勢力範囲でした。岩槻市からこのあたりは、長い時間ではないですが道灌とその一族が支配したらしい。

北区飛鳥山博物館石倉孝祐先生(「堀船郷土史平成増補版」p128平成28年2016年)が梶原塚について書いています。

寛延4年1751年酒井忠昌(ただはる、忠当?庄内藩?)「南向茶話」に「鎌倉海道がとおる交通の要衝」「此地ノ名主ニ名兵衛ト申者」から「古来寺ニシテ シンセイ寺(?真龍寺)と云寺アリケルカ 川ヘ欠イリテ 地所迫リテ没シヌ」という伝承を聞いています

「名主の名兵衛」については、高野山の龍泉院にある福性寺檀徒の過去帳には、〇兵衛の名前は、1668年又兵衛 1703年七郎兵衛 与兵衛1769年 次兵衛 1808年由兵衛はありますが、名兵衛はありません。高野山に供養をしていないか、酒井忠昌の聞き間違えでしょうか?

令和7年2025年2月1日江戸時代の福性寺のお檀家名とお戒名が高野山にありますhttps://fukushoji-horifune.net/blog/archives/26791

また、1834年と1836年 (天保5年と7年2回に分けて発行) 神田の町名主齋藤家三代と長谷川雪旦による「江戸名所図会」には、「享保の頃(1716-36年)迄は石碑 石壇ありしか 洪水の時 豊島川へ崩れ込ける」ほとんどの石塔などがなくなってしまっていたようです。

宝篋印塔の台石の上の石の何面にあります

宝篋印塔の台石の上の段の石の南面にあります

本HPの「境内のご案内」の「江戸名所図会 梶原塚」をご覧ください。長谷川雪旦による絵には、大きな松の木と小さな石塔が3基か4基見えます。如意輪観音像、執錫杖弘法大師、と地蔵菩薩2基でしょう。

しかし、天保2年1831年に川から引き上げられた石塔(宝篋印塔と光明真言塔)が再興されています。「開眼導師木食賢明 願主尼屋利兵衛 世話人徳島屋半助 天宝二年再興」と宝篋印塔の南面に書かれています(写真)。東西北面に多数のお戒名があります。しかし、風化によりかなり不鮮明となっています。開眼導師の木食賢明師は福性寺の住職であった明範師(文政四年十月1821年亡)の師匠です。

令和元年2019年7月23日来歴の書かれたお墓 二百年前の住職と鶴岡市 川上記?https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/3926

再建のあとに、3年か5年後に江戸名所図会は刊行されています。しかし再建された宝篋印塔と光明真言塔は見えません。齋藤家と長谷川雪旦は再建される前にこの地を訪問し、記録(ほとんど石塔がない様子)をして、絵を描いたことがわかります。

願主の尼屋利兵衛は本湊町鉄砲洲(江東区)の水・油仲買、下り酒問屋。世話人の徳島屋半助と木食賢明師は、山形県の貞泉寺に子育地蔵尊を寄進(1830年)しています。随所で布施をしていたらしい。

開眼供養の様子は知ることができません。しかし、仏説の宝篋印陀羅尼は即ち仏身です。陀羅尼の書かれた宝篋印塔は、仏陀の尊容を目の当たりにすることですから、賢明師をはじめ参列者には大きな感動があったと思います。

その後(明治の中頃)を知っている人々から、川の近くの土の高くなった土饅頭の周りに塔と数基の石塔が立ち並び、さらに周囲に数本の大木があり竹や雑草が生い茂り、足を踏み入れる人もなかったらしい。この土地は7から8畝(20から25坪)の広さでした(堀船郷土史平成増補版)

これらの再建された石塔は、明治37年1904年までは(多分そのまま)、陸軍貯炭場内にありました。陸軍の工廠拡張のおりにに福性寺に移設されています。

次回、光明真言塔について書きます。


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