「寺には郷土の歴史があります」と書いてきました。
令和2年2020年6月27日梶原堀之内村 水野藤右衛門と水野信定 寺には郷土の歴史があります https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/6209
この前回の記事に追加をします。一部重複します。
古写真研究家であり作家の森重和雄様が「新訂寛政重修諸家譜」(続群書類従完成会1980)を調べてくれました。また、その翻刻である「寛政重脩諸家譜第2輯國民圖書1923年」も調べてくれました。
ところで、水野家の当主であった水野藤右衛門・信成の長男信定の墓は、福性寺にあります。延宝8年(1680年)建立の墓です。聖観音様です(写真)。ホームページのメニューの「境内のご案内」にもあります。お戒名は「〇〇院殿〇〇〇〇大禅定門」です。お殿様のお戒名です。
水野家の菩提寺は、本駒込の吉祥寺です(先代住職からの伝聞)。しかし、信定は菩提寺ではなく、知行地の福性寺に埋葬されました。武家諸法度(1615年)により、菩提寺に埋まることができなかったのでしょうか?
水野藤右衛門・豊信(慶長3年1598年亡)とその子孫についての記述「寛政重修諸家譜、略称:寛政譜」によると、水野家の当主・藤右衛門は「通し名」と思われます。豊信は徳川家康に仕え、関東移封(1590年)に付き従い武蔵国豊嶋郡(現在の北区、荒川区、豊島区、板橋区、豊島区・練馬区の一部)に知行210石を与えられたとのことです。
子孫は江戸旗本となっています。神田にあった吉祥寺(後に駒込に移転)を葬地としています。豊信(江戸初代)→信久(慶長8年1603年亡)→信秀(延宝6年1678年)→信成(萬治2年1659年亡)が継ぎました。次の代が信定(福性寺)と信休(信定の弟、養子、元文3年1738年亡)が系譜となります。
福性寺の過去帳にも、信成の父(信定の祖父)は信秀と書かれています。
水野家に従って梶原堀之内村に来た農民の子孫や寛永寺の関係のお檀家(お檀家からの伝聞)は、現在、福性寺のお檀家の15%近くを占めています。この方々は、水野姓ではありませんが、水野家と同じ家紋である「澤瀉(おもだか)紋」を使用しています。とても真面目なご家庭が多く、ご先祖様が寄進した福性寺(寛永2年1625年入仏式)のご本尊様を大切にしています。多分、ご本尊様にご先祖様をみているのであろうと思います。
以上の文章は「福性寺の歴史第8版」(令和3年7月発刊予定)にもあります。
以下の記事もあります。
令和元年2019年5月29日延命地蔵様 六阿弥陀一番目道地蔵菩薩 寺には歴史があります https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/3576
近々に「堀船郷土史を語る会」講演会の日程などの記事を書きたい考えております。