「私の時は死んだ後の顔を他人には見てほしくないな」71歳のお檀家の奥さんから聞きました。いつかお返事を書こうと思っていました。
葬儀社の社員が毎回のように言います。葬儀の終了後のお花入れや火葬炉前で「最後ですからお顔をゆっくりご覧になって下さい」。特に最近よく=毎回聞くようになりました。どこかのマニュアルにあるのでしょう。
その必要はありません。お元気であった時の写真のお顔が故人のお顔です。また若い時の写真でも問題ありません。
死後のお顔は「死後の変化」を見ているにすぎません。人は亡くなりますと、その時から医学的には「自己融解(Autolysis)」が始まります。病理解剖学・組織学では「自己融解」を「生前の病気による変化」と誤診しないように、肉眼はもちろん顕微鏡でも注意深く観察します。法医解剖学では大切な課題です。
死亡すると、細胞が壊れ中の酵素が流れでて、ヒトの組織を壊します。自己融解は全身で起きます。自己融解した組織では、その構造は不明瞭となり消失し、顕微鏡で見ても、どの組織か理解できなくなることがあるほどです。皮膚でも自己融解は起きています。
私は「葬式坊主」です。葬儀にご出席の皆様が安心できることが大事と考えています。それで訂正することがあります。「ご遺影のお元気な時の写真をご記憶下さい」と。死後のお顔を記憶する必要はありません。
ところで「四門出遊(しもんしゅつゆう)」の説話があります。釈尊(ブッダ)が王子であったころ、城の東西南北の四つの門から出かけた後、老者、病者、死者、修行者にであい、苦(く)を目のあたりにして、出家を決意したというお話です。
これは故人の人生をお顔を通じて記憶することとは関係が薄いと思います。死後の変化の起きているお顔ではなく、お顔の記憶は、お元気な時の記憶・写真、お若い時の写真でするべきと考えています。
死後のお顔は、諸行無常を表しているとは思いますけれど。
遺影について
令和3年2021年1月28日「その時に使ってほしい写真を撮影してあります」 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/7816
令和2年2020年4月7日「あの人は面食いではないんです!」広域飯能斎場にてhttps://fukushoji-horifune.net/blog/archives/5819
令和4年2022年10月3日福性寺に近づいて葬儀 お通夜が始まりました https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/14161
老苦・四苦
平成30年2018年9月18日前期高齢者から准高齢者へ 高齢者・老人虐待とは https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/1766