梶原の渡しは昭和36年1961年になくなったと書いてきました。
梶原の渡しのなくなった後の堀船の子供は自転車に乗り、西福寺様手前の豊石橋先を右折して、川沿いの鎌倉街道を経て旧豊島橋を渡り対岸に遊びに行くことがありました。現在の豊島橋よりも300m上流にありました。当時の子供、小学生は活動的でした。
途中、日産化学(位置は豊島5丁目団地)を左に見ながら坂を上り旧豊島橋に至ります。日産化学から出るヒドイ臭い(本当に吐き気がしました)に耐えて、自転車をこいでいました。
話は横道にそれます。後で知りましたが、この「ヒドイ臭い」はとても有害であり、江北村では、稲が枯れることがあったほどであると聞きました。大正時代から工場の移転(昭和45年1970年)まで、江北村宮城の住人は、公害、臭いの被害に悩まされました。日産化学から毎年保証金が江北村の農民に支払われていたとのことです(註1)。
さらに、旧豊島橋の先の旧江北橋の下や江北橋をわたった土手・河川敷に遊びに行っていました。当時の豊島橋や江北橋には、時々!穴が空いていて川面が見えました。危険です。しかし、宮城や荒川土手は堀船の子供にとって惹きつけるものを持っていました。
私の子供のころ、昭和30年ごろは、隅田川で釣りをしたことはありません。すでに水質が魚の住むことを許していなかったと思います。しかし、荒川(旧荒川放水路)ではハゼを釣ることができました。それでも、季節は限られ1日数匹が釣れました。
河川敷の水たまり程度の池では、アメリカザリガニはいくらでもいました。メダカ・くちぼそ(モツゴの関東地方の名前)は、いくらでも。小さなフナ、タナゴやドジョウは時々。ウナギや鯉はいませんでした。タナゴなどの魚の名前は上級生から教わりました。四手網(よつであみ)を使いました。
昭和60年1985年ごろ、子供をつれて荒川土手に出かけたことがあります。やはり荒川土手の河川敷の小さな池にはアメリカザリガニはいくらでもいました。
堀船の隣りの昭和町3丁目、明治通り沿いの滝野川第5小学校の入り口(福性寺から550m)や田端新町3丁目の交差点の踏切近く(福性寺から直線距離で1.8Km)には釣り道具屋さんあり、自転車で出かけていました。

右岸の防潮堤の定礎 その117です 梶原の渡し跡の下流にあります 上流の石板は119(160m)です 118 はスパー堤防堀船周回路のテラスの建設でなくなったようです 昭和45年3月31日しゅん功(ママ)とあります この石板から梶原の渡し跡を含む上流方向 140m+118のX m+160mの完成の時期です
しかし、背の高い防潮堤の完成は、完全に隅田川に関する関心を人々から奪ったような気がします。
防潮堤にはめ込まれた定礎の石板には、左側昭和47年1972年、右側昭和45年1970年3月竣工の意味が書かれています。すっかり隅田川と縁がうすくなった感じです。
このあと、スーパー堤防:堀船周回路が作られ、堀船4丁目では堤防の脇道がかさ上げされ、水面を見ることができるようになりました。
テラスもつくられ水面近くまで降りることができるようになりました。
川はきれいになり現在に至ります。魚も住んでいるようです。
次の記事で現在の両岸の写真をアップします。
(註1)足立風土記稿。足立風土記稿地区編3江北(編集足立区郷土博物館 平成12年3月発行 足立教育委員会)309ページ。
令和4年2022年4月5日隅田川で大漁 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/11756