六地蔵塔について書いてきました。正六角柱です。四面までご説明しました。さらに不思議があります。
写真は残りの面です。左には文政七年(1824年)、合掌しています。右は天明(1781年~)が書かれています。柄香炉をお持ちです。
ところで、明治36年1903年の福性寺の絵には、六地蔵塔がありません。リンク1をご覧下さい。通常、六地蔵は寺の門前にあります。福性寺の六地蔵塔は大きいです。また、寺や墓地にとって大きな意味を持っています。このため省略したとは考えにくいです。芭蕉の大きな葉や釣瓶井戸(つるべいど)は書かれていますから。なんで絵の中にないのかしら?四つ目の不思議です。
明治37年1904年に、隅田川べりの梶原塚(梶原墳、眞龍寺跡地)が陸軍貯炭場・造兵廠となりました。このため梶原塚からたくさんの石塔(6基あります)が福性寺に移設されました。これはリンク2に書きました。六地蔵塔には、明治30年と書かれていますので、絵にないことは、梶原塚から移設されたものの、一つのなのかもしれません。
なお陸軍貯炭場・造兵廠や堀船に至る軍用鉄道については、「堀船郷土史を語る会講演会」で北区史の専門家の講演を聴きたいです。
福性寺六地蔵塔のミステリー(やはり、ちょっと大げさ!笑)
1.なぜ檀家ではない方々が建立したのか?
2.再建か移設されたのではないか?お戒名のお命日と建立の日がとても離れています。
3.なぜ大きな破損を修復していないのか?大きな破損した部位はどこに?
4.なぜこれほど立派な六地蔵塔が明治36年の絵の中にないのか?
私の想像です。この六地蔵塔は、梶原塚・眞龍寺跡に古くからあり、江戸名所図会の時代(天保5・7年1834・1836年 )には、他の石塔と同じように洪水により隅田川に沈んでいました。ここを訪れた人々(久保田林造氏など:六地蔵塔1)により明治30年に再建されていました。明治37年に福性寺に移設され、他の石塔とは離れて門の近くに置かれました。このため、笠石の破損部位は旧梶原塚に残されました。こじつけ?つじつま合わせ(笑)
リンク1 明治36年の福性寺には六地蔵塔はありません。平成2017年1月11日江戸時代からの本堂 明治36年(1903年)の福性寺 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/3
リンク2 令和元年2019年12月19日梶原塚(墳)供養塔の大師執錫杖(しゃくじょう)像 小さな歴史2 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/4957
梶原塚の説明令和4年2022年1月25日寺院・神社の統廃合 江戸時代の梶原堀之内村では? 江戸名所図会の梶原塚 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/11057
梶原塚の説明令和元年2019年11月5日梶原塚(墳)供養塔の「如意輪観世音像」 小さな歴史https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/4632
最後に「いろいろ調べて福性寺が本当に好きなんですね!」とのメールをありがとうございました。それはそうなんですが、私に限ったことではないです。どこの住職さんも自坊(住職寺)を好きだと思いますけれど。
令和2年2020年4月1日「福性寺愛がすごいね?!」 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/5746