梶原塚:眞龍寺跡の続きです。令和7年2025年5月29日宝篋印塔と光明真言塔https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/29348
明治37年1904年に梶原塚から福性寺にきた石塔の中に光明真言塔があります。現在は宝篋印塔の東隣りです。他寺でみる光明真言塔よりも大きく立派です。全高1.4m弱、基壇は1㎡弱あります(写真上)。
この塔も宝篋印塔と同様に、隅田川から引き上げられ、天保2年1831年に再建されたものでしょう。以下は書かれていませんが、開眼導師 木食賢明 願主 尼屋利兵衛 世話人 徳島屋半助で再建したと思います。
文政13年1830年に、賢明師は世話人の徳島屋半助と山形県東置賜郡高畠町の貞泉寺に子育地蔵尊を寄進しています。
横道にそれます。再建から90年後大正10年1921年に亡くなった上東野照良師(父の叔父)から、父は木食賢明師や梶原塚の再建について何も聞いていないようです。上東野師は大正5年に入寺しています。「90年間の歳月」により庶民の行事や亡くなった人についての記憶は「この世界からなくなるようです」
正面の竿石には光明真言(円形、オンアボキャ・・・)と胎蔵界大日如来真言(中央5文字、アビラ・・・)が書かれています。
向かって時計回りで光明真言は書かれています。下からです。最初のオンの右側の字は、日本語では「。」英語では「ピリオド」です。
両真言は蓮台の上に書かれています(写真下)。
周囲3面には宝筐印陀羅尼がびっしり書かれています。
基壇の石には、なにかが書かれていますが風化により読むことができません。再建時(1831年)まで隅田川につかっていたからかもしれません。その後(1904年まで)は陸軍貯炭場内にあり、工廠の拡張により福性寺にきました。
この塔には施主も建立の日づけもありません。もしくは見えなくなってしまったのかも。
以下は光明真言についてです。福性寺では光明真言は以下のように口語で唱えることがあります。
「南無大日如来様 私に智慧と慈悲の光明をさし伸べ給え」
さらに簡略化して「福性寺版朝暮勤経法則」(黄色の紙)では
「南無大日如来さま 私に智恵と慈悲をお授け下さい」
仏教サンスクリット学者の父、田久保周誉著「真言陀羅尼蔵の解説第三版」54ページには「唵・常恒身の大日尊よ、大印契(覺証明)具足尊よ、摩尼寶珠(智惠)と蓮花(慈悲)の光明(救度灌頂)をさし伸べ給え」とあります。
福性寺の本堂の格天井には周誉師による光明真言が書かれています。下から写真で撮りましたので、ミラーイメージ、左回りになっています(福性寺の歴史第9版p89)。
光明真言塔と異なり時計回りでオンの字は12時(上)から書かれています。
人天蓋のために、全体を1枚の写真に写すことができませんでした。檀家様の高橋様の友人で、元の私の医学の研究チームのメンバーであった藤田喜弘氏が4枚に分けて撮影し、Adobe Photoshopで合成しました。過去記事にあります。格天井はなかなか美しいです。
袈裟の光明真言
令和6年2024年8月6日 袈裟の織屋・染屋さんの廃業 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/24289
萩原東邨先生が彫りました
令和5年2023年11月26日優しい字 萩原東邨先生 https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/20675
本堂格天井の光明真言
令和4年2022年7月11日「光明真言オンアボキャ・・・」「智慧と慈悲をおさずけ下さい」https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/13056
光明真言のお手本
令和3年2021年12月23日「梵字入門 第五版」「書評」を頂きましたhttps://fukushoji-horifune.net/blog/archives/10807
令和2年2020年4月1日「福性寺愛がすごいね?!」https://fukushoji-horifune.net/blog/archives/5746